自分掘り

幸せコンプレックスを持っていること自体おこがましいと思うけど

お弟子さん制度第2回目が終わり、色々詰め込んだんだか、詰め込んだのに流しちゃったんだかわからない感覚に襲われている。

わかったんだか、わかっていないだか。わかったふりしているんだか、本当にわかっているのか…?

特にこれから自分をどう売っていくかのビジネス論の中で、『自己開示』の必要性について、かなり「これ必要なの?やんなきゃだめなの?」と思い、なおかつ、私個性ないし、売りもないし、黒歴史もないし…と思っちゃったんだよね。

その上、お仲間の濃い内容のブログがどんどんアップされ、なんかみんな進化している!!すげーーなーーーと、お仲間ブログストーカーになってしまい、仕事もそこそこになってしまっている。

そんな感じで、ぼんやりと過ごしていたら、二期生のアイドルの岩橋さん、通称たかさんが以下のブログでまとめてくれていて、ほーーーーっとなった。わかりやすい。

カウンセラー・根本裕幸の、これからのビジネスのお話(信用、個性、自己開示、共感ビジネスについて)

たかさんブログから拝借

③なぜ自己開示が大切か?

具体的に、個性を出す一番簡単な方法=自己開示

自己開示はエネルギーと感情が乗る

そのエネルギーが読者の心に響く

自分の体験を、自分の言葉で、赤裸々に開示する事が大事

 

よく読んでみて、『自分には悩みを抱えている人に伝えられる経験も感動も持っていない』と思っていることわかった。だから自己開示しても共感を得られることはないだろうなと思う。

やっぱりここにたどり着く…

幸せコンプレックスだ。

問題を起こしても結局幸せにたどり着く

この『幸せコンプレックス』と言い始めたのは、高校ももう終わりという頃だったと思う。

高校生の頃って親の束縛や呪縛から如何に逃げるかを考える年ごろで、好きなアーティストのライブに行くでも、映画に行くでも、芝居を観に行くでも、自由に好きなことをやろうとすると、親が一言言ってくる…と悩む友だちが多かった。

いわゆる門限があったりだとかね。

我が家はそれが全くなかった。夕飯がいるかいらないかは伝えていたかもしれないが、完全に自由だった。

かと言って、放任というわけでもなく、心配されている感、愛されている感はあった。

そしていつも友だちからうらやましがられていた。「そりゃうらやましいだろうね」と思っていた。

そんな自分があまり好きでもなかった。なんだかうらやましがられるのもあまり気分のいいもんでもなかった。自分が偉そうな気分に一瞬なるのも嫌だった。

高校を卒業して、あまり勉強もできなかったので「お芝居やりたいです」と親に宣言した。反対されるだろう思ったら、いや反対されたかったのに「おお!いいじゃないか」と言われて拍子抜けした。

なんか、反対されても自分は好きな道に行く!!というかっこいいシチュエーションが欲しかった。それもないのよ。信頼して好きなことをさせてくれる両親だったから。

問題がなかったわけでもない。

1. 小学校1~3年は毎日のように先生から叩かれ、泣いてばかりした。軽い登校拒否もあった。
2.  小学校ではバレーボールチームに入っていたが暴行が横行するようなチームだった。全身あざだらけ。
3.勉強をしたことがなかったので、中2の冬に先生に呼ばれ「行ける高校がない」と言われた。
4.中3の一年間だけ一生懸命勉強したら偏差値が60越えし受験⇒すべての高校に落ちた。
5.演劇学校を卒業後、役者にはならずに友だちと芝居関係の仕事を立ち上げるが、全然儲からず、心身ともに疲弊し「裏切者!」と罵られながら辞める。
6.  19歳から26歳まで『付き合っていた』男がいたが、体の関係はなく、こちらから「別れましょう」と言ったら「付き合ってないから別れるもなにもない」と言われた。

と思いつくのはこれくらいかな。う~ん…大した事ないんだよね。問題が。結局どうにかなったわけだし…と思う。

その時は大変だった…と思う。でも結局家族が守ってくれて、完全肯定してくれて持ち直している。だから人生に深みがないというか…。

で、幸せコンプレックス。幸せなのが悪いような気分。みんな苦労してがんばって生きているのに、なんで私は結局幸せになっちゃうのかなという変な劣等感。幸せになりたくないのかな?

この感覚で共感を得られたことは今までない。ちょっと変わっているよね?と思われるくらいだ。なんか悩んでいる風だけど結局は幸せなんだから。悩みのうちに入らない。

メサイアコンプレックス

私はボランティアができない。『人の役に立つ』こともあまりしたくないなと思ってしまう。

理由は、その行動を起こして「やってやった」という感覚に自分がなってしまうのではないかという恐怖。だたの自己満足のためにやっているんじゃないの?とやる前に思ってしまってやる気にはならない。今までボランティアに参加したいと思ったことはない。

メサイアコンプレックスというあまり聞き覚えのないコンプレックスがある。

メサイアというのは、一般的な日本語ではメシアと言われるもののことである。この心理が形成されるのは、自分は不幸であるという感情をしていたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。
このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。
そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である。

wikipediaより引用

幸せであることにコンプレックスがあるから、自分が不幸だと思い込もうとして、その反動で幸せと思い込み…ってこと? なんじゃそりゃ?

もしくは、自分の覚えのないところで不幸だと思い込んでいるのだろうか?人間の心理はよくわからないな。

ボランティアをやる本来の目的は『まず自らが充足した状況になること』なのだが、自分自身がそうなる自信がない。

耳の奥で「偽善者偽善者偽善者偽善者」と響いちゃうんだよね。

お弟子さんのセッションでわかったこと

セッションで『人の役に立つこと』が苦手と話したところ…

人のためだけやることはやっぱり疲れるよ。自分がやりたいことをやってそれが人のためになるのならそれは疲れない。

と言われた。

そうか、そういうものか。自分がやりたいからやる。その結果、人のためになっていたら万々歳ということか。

『人の役に立つ』=犠牲/我慢と思っていたんだな。

誰かの役に立たなくてもいいじゃないか

どこかで「誰かの役に立たないと意味がない」と思っていた。でも犠牲とか我慢とかはしたくない。多分今も思っている。

でも、自分が幸せだから誰かを幸せにしなくてはいけないと思いたくない。誰かに『幸せを分け与える』みたいなおこがましい考え。それはメサイアコンプレックスだ。

幸せであることにコンプレックスを持っているのはこういうことなのかな?

なんだかよくわからんくなってきた。

なんだろうね。

誰かの役になんてたたなくてもいいじゃないか。幸せならば。

この記事も誰かの役に立つのだろうか?

立たなさそうだな。

ま、いっか。

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