自分掘り

自信と慢心と謙虚と卑屈について考える。謙虚な自信家になるために

20歳くらいの時、仲間から言われた。

「春野って自信家だよね~」

その瞬間は「???」となって褒められたのか、けなされたのかわからなかったが、あとであれはけなされたのだと思った。

自信家ってなんとなくネガティブな意味にとらえられることがある。『自信を持つ』ってことはポジティブなことのはずなのに、なんだろうこの圧倒的なネガティブ感。

根本師匠の心理学基礎講座DVDで知った『自信』と『慢心』の違い。はっ!これか~と心のモヤモヤが晴れた。人の話を聞くか聞かないか。受け入れるか受けれないか。(ってことだったと思う)

仲間が言った『自信家』は『慢心家』の意味だったのかと。それはそれで私は慢心家なのかと思うとだいぶ落ち込む。そう見えるだけと思いたいが…そうも言いきれないかなぁ。どうなんだろう?

褒められすぎて卑屈になる

私の母は身内をべた褒めする人である。エキセントリックな人で自分の懐に入っていない人は絶批判をするのも特徴である。

因みに夫の父親も息子をべた褒めする。なので私の母と、夫の父が集まるとお互いの子どもの自慢合戦になり、しかも相手の話を聞かないので、自身の子を褒める言葉のドッジボール状態になる。

シュールな場面である。

それでも私は褒められて100%うれしい気持ちにはならない。

子どもは親の影響だけを受けて育つわけではない。褒められて育てられるのはいいことだろうけれど、子どもが出会う人は親だけではなく、先生とか友だちとか、友だちの親とかも考え方に影響されていく。あたり前ではあるが。

私は正直言って『できない小学生』だった。先生の言っていることはほぼわからなかったし、毎日先生に叩かれて(時代だわね)、泣いて、他の生徒に笑われて、小学校低学年時代は暗黒の時代だった。

それでも友だちはいたし、もちろん幸せな家庭だった。

母親はモンスターペアレントではないので、学校に何か言うということはなかったが、「あなたは悪くない。先生がおかしい」と言い続けていたんだと思う。

あまりにも先生に怒られてばかりいたので、母親が褒めちぎることが信用できなくなっていったのだと思う。

「私は本当はできない子だ」と思っていた。実際今も卑屈なところがある。褒められても「いや、本当はそうじゃない」と思っている。

めんどくさい心理状態である。

謙虚なのか卑屈なのか

お弟子さん制度の宿題で電話セッションをした。その時仲間から言われたことが驚いた。

春さんって謙虚なんですよ。

謙虚?謙虚???始めて言われた。ベラベラとしゃべるし、あまり遠慮ということを知らないし、あまり我慢もしなければ、好きなことだけして生きてきた。

その私が謙虚?

これは褒められているのがよくわかった。でも100%受け取れなかった。その時はなぜこんなに『謙虚』という言葉に拒否反応したのかはわからなかったが、あとで思った。

自分は『謙虚』ではなく『卑屈』なのだと思っているんだと。

人の心は読めないし、どう感じているかわからない。同じ言葉を言ってもそれが『謙虚』からなのか『卑屈』からなのかわからない。

多分、本人もわかっていない。

因みに夫は卑屈なところがまるでない。驚くほどにない。褒められて大事に育てられてきたのだろうなと思う。まったく腹が立つ。そして自分のことを「オレは根拠のない自信家だから」と恥ずかしげもなくいう。まぁその通りなのだが。かといって謙虚でもない。「オレってすごいだろ?」という話をよくしている。これもまた複雑だな。

謙虚な自信家になるために

そう考えると目指すところは『謙虚な自信家』なのだろう。

自己肯定感をあげること
自分の過去も未来も「これでいいのだ」と感じること
自分自身をまるっと受け止めること
褒められたら素直にすべて受け止めること

こういうことかな?

よくわからんけど。

 

山本春野のカウンセリングメニューはこちら

カウンセリングメニューこちらから
 カウンセリングメニュー 

 

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください